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【引退】ありがとうウッチー!内田篤人の引退スピーチ全文と選手としての特徴

内田篤人のキャリア簡易年表

2006年 鹿島アントラーズ入団
2006年3月5日 開幕戦でクラブ史上初の高卒新人デビュー
2006年3月21日 プロ初ゴール
2006年10月 U-19代表アジアユース

2007年7月 U-20W杯出場
2007年 鹿島アントラーズでJリーグ優勝

2008年1月26日 A代表デビュー
2008年6月22日 A代表初ゴール
2008年8月 北京五輪
2008年 鹿島アントラーズでJリーグ連覇達成+Jリーグベストイレブン

2009年 鹿島アントラーズでJリーグ3連覇発生+2年連続Jリーグベストイレブン

2010年6月 南アフリカW杯で日本代表メンバー入り(※出場なし)
2010年7月 ドイツのシャルケに移籍

2011年1月 日本代表でアジア杯制覇
2011年4月13日 インテルの長友佑都選手とチャンピオンズリーグで初の日本人対決を実現し、日本人初のチャンピオンズリーグベスト4入り

2013年9月18日 チャンピオンズリーグ初得点

2014年2月9日 リーグ戦にて右太もも裏の肉離れ、腱損傷。手術はせずに保存療法を選択
2014年6月 のちに失意となるブラジルW杯で孤軍奮闘の活躍で全3試合に出場(※GL敗退)

2015年3月 右ひざを負傷
2015年6月 右ひざの手術

2016年12月 1年9か月ぶりの実戦復帰

2017年8月 ウニオン・ベルリンに移籍

2018年1月 鹿島アントラーズに復帰
2018年11月 アジアチャンピオンズリーグ制覇

2019年1月 鹿島アントラーズの主将に就任
2019年3月 再度右ひざを負傷
2019年9月 半年ぶりに公式戦復帰

2020年2月1日 右ふくらはぎを負傷
2020年8月 引退を発表

内田篤人選手の選手としての特徴やプレースタイルは?

・ウッチーは1対1にやたら強い
・常に冷静なクールガイ
・内田篤人が日本にもたらした新たなサイドバックの役割
・チャンピオンズリーグ最多出場時間

ウッチーは1対1にやたら強い!

内田篤人選手は176cmとヨーロッパでは体格的に小柄な部類にはいります。
しかし、チャンピオンズリーグで数々のウイングの選手たちを封じてきたように1対1の強さはヨーロッパでも非常に定評がありました

常に冷静なクールガイ

内田篤人選手と言えばインタビューなどでの冷めた発言が有名でひとつの特徴(笑)

一部の大人たちは「ゆとり世代が・・・」と言っているでしょうが、一歩引いた位置から冷静に客観的に自分たちを分析し、その冷静さが試合の中でもチームを助ける特徴となりました。

内田篤人が日本にもたらした新たなサイドバックの役割

それまでのサイドバックと言えばサイドを激しく上下運動し、クロスを供給する。というのが日本でのサイドバックの仕事でした。

しかし内田篤人選手は日本のサイドバックに試合を作る、流れを変えるといった新たなサイドバックの仕事を持ち込みました。
これが今のJリーグでもサイドバックに多くの仕事が求められるようになった礎だと思います。

チャンピオンズリーグ最多出場時間

内田篤人選手がヨーロッパで認められていた存在という証拠と言える記録がチャンピオンズリーグ日本人最多出場時間という記録

29試合出場(日本人歴代2位)で2387分出場(日本人歴代1位)という記録

※2020年8月現在の記録

現役最後の最高キックがチームを救う同点弾の起点

2020年8月23日に行われた鹿島アントラーズVSガンバ大阪の試合は1-1という結果になりました。

この鹿島の1点は内田篤人選手のサイドチェンジを行った現役最後のキックが起点となりました。

アディショナルタイムの得点は苦しいシーズンを送るチームを救う内田篤人選手の現役最後の最高のキックでした。

キャリアの分岐点となった(?)ブラジルW杯の強行出場

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個人的に内田篤人選手のキャリアの分岐点になったのではないかと思うのが、2014年2月9日 リーグ戦にて右太もも裏の肉離れ、腱損傷。手術はせずに保存療法を選択し、ブラジルW杯に強行出場したこと。

また、そのブラジルW杯で他の選手たちが「自分たちのサッカー」へのこだわりから軒並み能力を発揮できない中、唯一全力を超えた殺気のあるプレーで輝きを放ったこと。

この二つの代償としてその後の内田篤人選手の選手生命を削ってしまったのでないかと思います。
しかし、引退スピーチでも言っていたように鹿島の伝統として「多くの先輩方が選手生命を削りながら日々努力する姿」を体現した結果だと思います。

涙なしには聞けない内田篤人の引退スピーチ

「たいした話をしないので大丈夫です」

「今日、僕はここでサッカー選手を引退します。鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを取ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら日々努力する姿を見てきました。僕はその姿を今の後輩に見せることができないと、日々練習していく中で体が戻らないことを実感し、このような気持ちを抱えながら鹿島でプレーすることは違うんじゃないか、サッカー選手として終わったんだなと考えるようになりました。

もう一花、二花咲かたいと日本に戻ってきましたが、そのなかで隣に寄り添ってくれたトレーナー、まだやれると背中を押してくれたザーゴ監督、大岩(剛)前監督、良い時も悪い時も共に過ごしたサポーター、スポンサー、そしてチームメート、本当にありがとうございます。このようなシーズン、チーム状況で僕の決断を理解してくださった強化部、監督、そしてチームメート本当に申し訳ない。日の丸を背負ってプレーする重さも、殺気のあるドイツでのスタジアム、つらさも嬉しさもすべて僕の財産です。

もう少しだけ。この話を聞いているプロサッカー選手を目指す子供たち、サッカー小僧の皆さん、鹿島は少し田舎ですが、サッカーに集中できる環境、レベルの高さ、今在籍している選手が君たちの大きな壁となり、ライバルとなり、偉大な先輩として迎え入れてくれるはずです。僕はそれを強く願います。最後に、サッカーを通じて出会えたすべての人たちに感謝します。また会いましょう。」

ウッシーお疲れ様でした!

32歳と近年のサッカー選手としては早めの現役引退となってしまいましたが、その輝かしいキャリアと日本の新たなサイドバックの役割を見出した内田篤人選手に「ありがとう!お疲れ様でした!」と伝えたいです!

本当にお疲れ様でした!またその姿を見ることができる日を楽しみにしています。